Kaobalさんが配信しているメーリングリストがあるんだけど、そこに「体力の限界」に関する記事が出て、自分の今後と重ね合わせて興味深く読んだ。その記事の終盤に以下のような、病院での医師との会話の記述があるんだけど(個人情報部分は編集済み) 「そのあと病院内でドクターに無理と無理しないの境界はどこ?と尋ねてみました。答えは簡単明瞭でした。「心拍数」です。人間の心拍数は{220ー年齢}= 最大許容心拍数です。ここまで行くと死亡の恐れがある。私の場合はこの数字より下の例えばXXXが「無理・無理でない」の境界点と言える。つまり自分の心拍数を観察することで無理なのかまだもう少しいけるのかが分かるということです。まさに私が知りたかった「限界」が数字で表されたのです。 この後すぐKaobalさんは心拍数が表示される腕時計を購入したそうだが、オイラもカミさんも今ネットでどれがいいかと物色している。 備えあれば憂いなしだ。
木曜日の朝は「さて、いよいよ水曜日、中日だ、頑張ろう」と考えながら起床し、金曜日の朝は「よし、あと1日で金曜日だ、もう一息!」と考えながら起床するのが習慣です。そう思い込むと体はそれを受け入れるんだけど、どこかでチラッと「真相」がよぎるととても嬉しい。まあ、なんて小市民的な喜びを満喫しているんでしょう。 さて、一昨日からバンコクはコロナ規制緩和になり、酒類を除いて外食、店内飲食が解禁になった。ただ、オープンエアのレストランは75%、クローズドのレストランは50%までしか客入れできないので賑わうというところまではいかないだろう。昨夜もバイクで近所のスーパーに買い物に行ったら、インターナショナルレストラン通りのスクムビットSOI11がいつもより煌びやかに見えた。店内にも少しお客が入って夕食をとっていた。 コロナ前まではまるで当たり前だった光景が、とても新鮮で愛おしく思えた。 何事も当たり前で済ませてはならない、感謝しなくてはいけないんだなとポテトチップスやレーズンやナッツをバックパックに背負ったスーパーからの帰り道にしみじみと思ったよ。
今日は午前10時からクライアントへのプレゼンテーション。これが久々の長丁場で3時間に及んだ。 途中でクライアントの日本人社長が自分の部下の日本人担当者に厳しく詰問する場面がけっこうあって気まずかった。それがオイラからの改善提案を受けるたびに 「その辺はウチはどうなってるんだ。ちゃんとやっているのか。」 「えっとですね・・・」 というやり取りの繰り返し。 「これ、せっかく山森さんたちからいろいろ提案もらってもウチがちゃんと考えてなきゃどうしようもないだろう!」 という叱責に流れ込んでいく。会議に参加している人数は両社で10人程度。責められる日本人担当者もけっこうしんどい場面だ。 それからしばらくの間、この社長が強い口調で問いかけるたびにこの担当者の回線の具合が悪くなり、 「あれ、今ちょっと聞こえませんでした」 で逃れるようになる。 こんなコント見せられたら笑うわwと思いながらマイクをオフにして笑ったが、同時に自宅から参加していた娘はオフにし遅れて笑い声が漏れていた。 こんなんあかんよ(笑)。
子供の頃の10年と違って今の年齢での10年はいかに早いかを体感で知っているので今からカブロスを想像して悲しい日々を送っているオイラです。 さて、いよいよ月末になるけれどロックダウンの解除はどうなるのだろう。シンガポールやマレーシアでも条件付きで外食が解禁されたようだし、バンコクでもそろそろ飯を食いに出かけたい。 アプリで簡単に食事をデリバリーできるサービスを使えば使うほどその便利さと裏腹にわざわざ出かけて店内で出来立てを食べる喜びを求めるようになる。 LazadaやAmazonでネット購入をすればするほどオンラインだけでは得られないものがあることを知り、実際に店頭で現物を見る安心感と楽しさを求めるようになる。 リモートで仕事をする時間が長くなれば長くなるほど賄いきれない領域を埋め合わせるためにまたスタッフ全員で顔を合わせて同じ空気を吸いたいと思う。 デジタルへの大きな流れは止められないし、稟議のハンコが復活することはないけれど、小さく小さく揺り戻しを繰り返しながら時代は進んでいくんだろうなと毎日変わらない部屋の窓からの景色を見ながらぼんやりと思った。