Jalan Jalan

マレーシア、タイから発信するアジアお気楽情報サイト

Tag: バンコク生活

最期の言葉

火葬も終わったよ、と弟から連絡があった。 3年前に他界した母をずっと介護していたのも、その後親父の身の回り全ての介護をしていたのも弟だ。両親それぞれに栄養や好物を考えて朝昼晩の食事を作り、散歩に同行し、病院に連れて行き、武蔵野公園で梅や桜のお花見をし、たまには車で横浜中華街に連れて行ったり、箱根板橋にある別宅まで行って箱根の温泉に入れたり、ひたすら二人に寄り添う生活をしてくれていた。 3日ほど前に弟が、自分でトイレもできなくなった親父をベッドから起こして風呂に入れる動画を送ってきたが、これが1日何回もあるのだと思うと、もうひたすら頭が下がった。 動画の中で親父は弟に悪態をついていた。 もうまともな意識があるのかどうかもわからない中で「痛いな、このヤロウ」と怒っていた。 親父が亡くなる前日の夜、風呂場に連れて行く途中で立て掛けてあったものが親父の足の脛に当たり、だいぶ口汚く弟を叱ったらしい。 それでもなんとか風呂場に行き、体を洗ってベッドに戻って寝かせ、掛け布団を全部かけてあげたときに、親父がひと言、 「ありがとう」 と言ったらしい。 結局それが親父の最期の言葉になった。 弟はすでにもう長くないと感じていたらしく 「その前の罵りが親父の最期の言葉だったら、これだけ頑張ってきてほんとに俺はたまらなかったなぁ」 と辛かった気持ちと安堵の気持ちを打ち明けてくれた。 弟は風呂場までの歩行を軽減しようと、ベッド脇にシャワー室を自分一人で作っていた。 「今朝、お湯が出て使えるようになったんだけど、一度も使わずに逝っちゃったね」 とシャワー室の写真を僕に見せながら言った。 介護生活が終わるといきなり気が抜けたようになってしまうと聞く。 「あ、もう昼飯作らなくていいんだと思い当たって、高井戸警察署の帰りにバーミヤンであんかけ焼きそばをテイクアウトしてきたよ」 と寂しいことを言うので 「今度戻ったら悠の食いたいもの食いに行こうね」 と励ましてやると 「中華街の『同發』が昔ながらの香港の味で美味い。楽しみだな」 そう言いながら弟は久しぶりに笑った。

昨日午後、親父が永眠した。 1週間ほど前から自分で立って歩くこともできなくなり、寝たきり状態になっていた。食も細くなって昨日の朝は大好きなアイスクリームも食べなかったらしい。介護をしている弟が、親父がイビキをかいて寝ている間に病院に往診を依頼する電話を掛けて戻ったら、もう息をしていなかったと言う。 酒もタバコもやらず、持病もなく、毎日パンに付けて食べていたギリシャのオリーブオイルのお陰で医者から 「血液がサラサラすぎる」 と言われるほど健康で、半年前の健康診断でも何も悪いところがなかったので、老衰ということになるのだろう。 来週2月11日の建国記念日で91歳を迎えるはずだった。名前の「紀(おさむ)」はこの紀元節の「紀」から取ったものだ。 親父は東京外国語大学インドネシア学科を卒業後、中堅の貿易会社に入社し香港に赴任した。香港駐在中に私は現地で生まれた。私は3歳で母と日本に戻ったが、父は私が成人するまで長く香港に駐在した。 その後、西武百貨店、西友と西武グループに勤め、北京、上海に駐在した。香港と中国で人生のほとんどを過ごし、香港をこよなく愛する親父は、昨今の中国による香港での武力行使を辛い思いで見ていたことだろう。 西友を50代で早期退職すると、祖父の死後休眠状態になっていた貿易会社を継ぎ、一人で貿易会社経営を始めた。 インドネシア  肥料として価値の高いコウモリの糞マレーシア   海鮮加工品やココナッツカレーオーストラリア 病院の床ずれ防止用のシープスキン中国      MOSバーガーなどに使われたXO醬ギリシャ    エキストラバージンオリーブオイルアメリカ    装飾用飾り紐 など、一人で世界を飛び回っては、買い付け、輸入通関業務、国内販売をこなした。86歳の時、また新たな商材を探しに晴海の展示会場を歩き回っている最中に倒れ、それを最後に会社を弟が引き継ぐことになった。 とにかく実直で真面目で仕事が大好きだった。久しぶりに一時帰国したり、電話で話しても親父は今彼が扱っている貿易業務の話を楽しそうに私に伝えてきた。 私の海外転勤を1番喜んだのも親父だった。元会社から 「シンガポールとマレーシアの両方を見て欲しいが住むのはどちらがいいか?」 と聞かれ迷っている時に 「そりゃマレーシアだ」 と私のマレーシア転勤を決めたのも親父だった。インドネシア語とマレー語は非常に似ている。インドネシア学科卒の親父は私がマレーシアに渡ってからすぐにマレー語クラスに通い始めた。 海外で事業を起こし、海外で暮らす私を誇りに思ってくれていた。親父の友人がクアラルンプールに来た時に 「『いつも息子はマレーシアやタイで頑張っているんだ、すごいんだ』と会う人みんなに自慢しているよ」 と聞いて涙が溢れてきてしまった。 コロナのせいで丸3年も会って話をすることができなかった。もっといろいろな話をしたかった。私のここ最近の会社や仕事の話もたくさん聞いて欲しかった。 今も出入国の規制が厳しく、一時帰国しても何もできないため、葬儀、火葬の手配はそのまま弟にやってもらうことになった。もう明日の朝には火葬場だしね。送り出すこともできなくてごめんね。本当に今までありがとう。 今晩はカミさんと追悼の酒を飲みながら思い出話をすることにしたよ。仲の良かった天国のおふくろとまた会えるね。そこでまた積もる話もしなよ。きっと止まらないだろうね。

よくわからない黎明期

マレーシアに着任して間もない1993〜1994年頃に「インターネット」というのが世界を大きく変えるらしいという話が出始めた。その時いろいろなメディアや専門家による「インターネット」は 「世界中の人々が繋がって、何か知りたいことがあるとリアルタイムで誰かが答えてくれる」「ホームページなるものがあって本のページのように情報が閲覧できる」「パソコン上に書いた手紙が電子で相手に届く」 といった説明がされていて、実際のところまるでよくわからなかったし、きちんとユースケースを説明できる人もいなかった。 きっと、その当時世界で最もインターネットの知識を持った人ですら、のちにマークザッカーバーグのような人が現れてFacebookといったプラットフォームを作って世界中の人が自分たちのコミュニティを形成するなんて想像できなかっただろう。 メタバースやNFTが今そんな感じ。 可能性がデカすぎて誰も全体像を結べない、そんな黎明期だ。 インターネット黎明期に「早く何か始めた人」の多くがネット億万長者になった早い者勝ちを体験してきているので、今回も多くの企業やベンチャーが動いている。 NFT(所有や売買の履歴を証明できる技術)を取得して、あるチームが制作したクリプトパンクスと名付けられた1万個の「顔」。 この顔アイコンはデジタルであるにも関わらず、ゴッホの絵のように本物だけの証明書が付けられるようになったことで「所有」することができるようになった。それがマーケットで価値を認められ、「デジタルの所有」という話題性もあって最も高額な「顔」は8,000万円で落札された。そして、下の青白い顔の2つの顔は、8億6700万円で売買される。 いや、もう何が何だか、世界では何が起こっているのかついてこれないでしょ(笑)? でもね、ついてこないとダメなのよ。デジタル技術による情報格差が貧富の格差に繋がっていく時代、厳しいね。

貫き通すこと

15年くらい前にバンコクで知り合った、何をやっているのかよくわからない日本人がいた。 知り合ったのは日本人仲間が集まるワインバーのパーティーで、少し小さめで傷だらけのギターを抱え、 「じゃ、歌おうかな」 と言って、聞いたこともないそれほど上手くもない歌を歌っていた。 その小柄な男性はのぼるちゃんと呼ばれていて、タイ語の翻訳仕事をやりながらなんとか細々とバンコクで生き抜いているという話だった。FBで友達になったが、毎日、朝昼晩にアップされてくるのはどんぶりに入ったスパゲティの写真ばかりで、カミさんとそれを見ては 「のぼるちゃん、こんな食生活で生きていけるのかな」 と心配になる程だった。 それから風の噂に何度か日本で暮らしている、タイに戻っているらしい、といった話を耳にしていたが、ここしばらくは音信不通だったし、オイラもカミさんものぼるちゃんのことを忘れてしまっていた。 今日、ネットニュースを見ていたらのぼるちゃんの記事が出ていた。 審査員の一人、五木寛之は 「単なる風俗小説ではなく、面白さの中に品の良さを感じる」 と評していた。 「タイでの経験、行間に」 という小見出しもあったから、バンコクでの生活から得たものを織り込んだのだろう。とにかく、どんなことでも 「続けること」 が何よりも大事なんだなと改めてのぼるちゃんに教えてもらった気がする。

メタバースへ移転?

Meta(旧フェースブック)が展開するメタバースオフィス「Workrooms」について検討をしている。 スタッフは自分のアバターで出社し、業務や打ち合わせをアバター同士で行う。 専用のVRゴーグルなどの装着が必要だが、実際に購入してテストをしてみる。 リアルのオフィスでは会えなかったけど、タイ人もマレーシア人も国の違うスタッフ全員がメタバースオフィスで毎日一緒に仕事をすることになるかも知れない。とにかくいろいろ挑戦してみる。

限界がなくなった

この2年の間に自室やたまにコンドのプールサイドで仕事をしてきたことを振り返ると、ネットさえ繋がれば完全に会社が回ることが実証された。そうすると、自宅に敢えて擬似オフィス空間を作り出す意味は 「追加の費用がかからないし、気を使わない環境が落ち着くから」 以外にない。 逆に言えば 「少し費用がかかってもいいので気分を変えたい」 のであればワーケーションしてしまえばいい。 今までソンクラン休暇や年末年始休暇を使って2週間くらいの旅行をしていたが、この「2週間」というのが社会人になってからの限界だった。なんの限界かというと 「会社や同僚に迷惑がかかる」「社外のクライアントや取引先に見栄えが悪くなる」 限界だったのだ。 しかし、旅先であろうと自宅であろうとネットさえ繋がるのであれば、どちらの限界も消滅する。 ビーチリゾートの砂浜で、ヨーロッパの街並みを歩きながら 「あ〜、欧米人みたいに1〜2ヶ月くらい長期休暇が取れたらもっとここでのんびりできるのになぁ」 と感じたことは日本人なら誰でもあるだろう。 休暇がそんなに長く取得できないのならば、休暇とワーケーションを組み合わせてしまえばいいのだ。 とりあえずオミクロンが明けたら、大好きなウブド辺りから始めたい。 クライアントへの資料を作り終えるたびに一杯なんてどうよ。

岐路に立つ62歳

今年の7月で63歳になる。 還暦を迎えたところで完全に引退し、毎日のんびり暮らしている同期もいる。先週、心不全で急逝した同期もいる。そんな歳である。 そんなオイラに年明け早々、日本のある大手企業から声がかかった。DXが拡がるこの時代、新たに海外でデジタル事業を立ち上げたい、パートナーとして協力してもらえないかと。 自分の会社を切り盛りしながら、新規事業や会社の立ち上げというどえらい力仕事をやることに逡巡がある。心身ともにしんどい日々になるのがわかっている。 でもやってみたい。まだまだ新しい世界や風景を見てみたい。

意志の強い犬

カブが朝の散歩を自己鍛錬の場にし始めた。 散歩経路の途中にある歩道橋の前で全く動かなくなるので、何がしたいのか様子を見たら歩道橋の階段の1段目に前足を乗せてしばらく上を見上げている。下ろしては乗せ、下ろしては乗せを繰り返した後で、今度は2段、3段と上っては降りてくるを繰り返すようになった。 これを1週間ほど繰り返した。 それから2段、3段が5段、6段を上っては降りを繰り返すことが数日続き、今日はとうとう15段ほどを上って踊り場に辿り着いた。 本人は感慨深げに踊り場から地上を見渡していた。 今日はこのくらいで勘弁してやる風の顔で踊り場から階段を降りると散歩を続けた。 この歩道橋を上りきるにはもう一つ15段の踊り場を超え、最後の15段をクリアする必要がある。カブの挑戦はまだまだ続く。

昨日はバンコクソフトボールでトーナメント戦がありました。 オイラは2本柵越えを打ち、投げては13対3で抑え、バンコクの大谷翔平と呼ばれています。相手投手が勝負を避けて外角に大きく外してきた球をライトフェンス直撃、と、もう手のつけようのない暴れぶりでした。 大差をつけた最終回の打席では相手の捕手が 「もうお手柔らかにたのんますよ」 と言ったので、そりゃそうだな、と思い、内野手の頭越えくらいを狙おうと軽く振ったのが、力の抜けた理想的なバッティングになったのだろう、その打球はレフトの柵を大きく超えていった。なるほど、これなのだな! と62歳にして新たに打撃開眼。 まだまだ伸びるぜ、自分〜と笑いながらダイヤモンドを一周した。

Back to top