元会社(DIK)時代からお世話になっている先輩から大昔にオイラが社内報に寄稿した記事が送られてきた。昨日の「この先どうする?」の「ひと言」を読んだ後でこの社内報記事を見つけて、いいタイミングだとわざわざ送って下さったのだ。 その原稿はオイラが33歳、マレーシアのクアラルンプールで苦労して支社を立ち上げた時に書いたものだったが、こんな気持ちだったんだなぁ、と忘れていた記憶が蘇ってきた。こんな出だしだった。 ことし一月三十一日、本社より田中社長、矢部取締役、DIKタイより川村社長をお招きし、DIKマレーシアのオフィシャル・オープニングが挙行された。南国の青空にはためくDIKの社旗を仰ぎ見ながら、この日に至るまでのさまざまなことが思い起こされ、感きわまった。 三年半前の赴任当初、私は重度の下痢に悩まされ、通じない会話にいらだち、はかどらない仕事に焦り、体重が八キロ減った。ひとり寂しくホテルの部屋で、「これから俺はどうなるのだろう」と不安いっぱいだった私を元気づけてくれたのは、DIKの仲間から餞別にもらった「スーダラ伝説」と「ひばり大全集」(二枚組み)のCDだった。植木師匠は、「いろいろあるよいろいろね そんなこたどうでもいいじゃねえか」と笑いとばされ、ひばり先生は、「川の流れのように」とやさしく諭してくださった。 今の自分からすれば「おい、そんなのは苦労のうちに入らねーぞ。その後、とんでもねぇ、苦労人生が待ってるからな」 と無慈悲な声もかけてやりたくなるが(笑)、この時は、なんかこう、一つの山を乗り越えて、これから果てしない希望が満ちているという斜め上向きの眼差しが思い浮かぶ。 まだまだ初心を忘れずに、挑戦し続けていったろうやないかい、という気持ちになった。
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今月頭、息子が日本に帰国する前の最後の週末に、彼らが子供の頃から撮り溜めた写真をスライドで上映した。 マレーシアのランカウイ島やモルディブ、オーストラリアのダーウィン、パース、ギリシャやデンマークやスウェーデン、カナダのトロントやバンクーバーなど、マレーシアという地理的優位さや海外駐在員という身分を利用してずいぶん豪勢に旅行していたもんだなと思う。 当時は日本の給与はそのまま日本の口座に振り込まれ、その上でそれ以上の海外勤務手当というのをもらう時代だったから海外駐在員はそれなりに生活が楽だったと思うが、今はそんなこともないらしい。 写真のスライドの箱の隅から子供たちの2歳の時の声、とか4歳の時の声、とか古いカセットテープが出てきたが、もはや我が家にはカセットプレイヤーがない。 そのためにプレイヤーを買いに行くのも面倒だし、どこかに落ちてないかな(笑)。
昨日の昼頃にバンコクからクアラルンプールに入った。今回初めて、空港のイミグレが欧米人や中国系観光客で大行列になっていて 「コロナ前が戻ってきたんだなぁ」 と実感した。 タイもマレーシアもコロナの3年間に空港のシステムやイミグレの処理能力向上などにまるで着手してなかったのがハッキリとわかるのだ。 空港というのは、その国の第一印象と最後の印象を与えるとても重要な場所なのに、まずそういうことには無頓着。さすがに税関で荷物を開けさせ、難癖を付けて公然と賄賂を要求するという場面は見なくなったが、基本的にそれ以外はオイラが初めて体験した30年前と何も変わらない。 きっとタイもマレーシアも変わることはなく、ずっとこのままだろう。 まあ、それが好きでここにいるんだけど(笑)。
昨日はJalanJalanソフトボールのメンバーと飲み会。 オイラ入れて集まった8人のうち、4人が大学生。その4人全員が高校球児。だから1〜2年前まで甲子園目指して野球をやっていたほぼバリバリの現役なのだ。というか、オイラ以外の7人は、全員、高校球児、そのうち2人は大学、実業団野球までやってる連中。野球の話になるとオイラのアウェイ感、わかってもらえます?(笑) そんな中、大学生の彼らに 「なぜ、マレーシア留学なの?」 と聞いてみた。 大学生1:大学進学して野球を続ける気持ちはなかった。就職しようかなと思ったら母親が「海外留学したら?」と勧めてきた。いろいろ調べたら費用も安いし、マレーシアがいいね、ということになった。 大学生2:進学したい大学の受験に失敗した。浪人するのやだな、と思っていたら友人がマレーシアに留学することを知り、ついていくことにした。 大学生3:高校野球をやっていたから受験勉強が間に合わなかった。留学したいと親に相談したが、親は大反対だった。それでも何とか説得した。本当はアメリカ留学したかったが、金が足りないのでマレーシアになった。 大学生4:高校卒業間際に母親がマレーシア留学の話を勧めてきた。特にこうしたいという進路がなかったので、未知の国マレーシアに行ってみることにした。 ということだった。 まあ、それほど積極的にマレーシアに留学したいという意思があったわけじゃないね。そうすると今200人を超え、なお増え続けているという日本人留学生たちも、何となく将来英語とか身につけておくと社会に出て可能性が広がるという親御さんの意向を背負いながらここで勉強している感じなのかね。 確かに、日本の大学出ても英語すら喋れるようにならないもんね。日本が沈みゆく中、国外で生きられるスキルを学ぶのは正解だろうね。
KLソフトボール、今シーズンの最終戦となる3位決定戦は、対戦相手のピッチャーの速球に手も足も出ず、 0対12の完封負け。 オイラも2打席ノーヒットでいいとこ無かったし、とても悔しい。これでJalanJalanは来シーズンの幹事チームとなりました。 明日の夜は今シーズンの納会と来季に向けた決起大会を兼ねてチームで飯会をやる。 現在のJalanJalanチームはマレーシアに留学中の日本人大学生がメインなんだけど、マレーシアに留学している日本人学生って今どのくらいいるか知ってる? 200人〜300人だって。 びっくりしたよ。しかもどんどん増えているんだって。オイラ、10人くらいかと思っていたよ。 高校を卒業する時に、「マレーシアに留学」ってのが選択肢としてあるのか。オイラの高校時代なんてそんなこと頭に浮かんだやつ日本中に1人もいなかったと思うよ。 明日の夜はそんな学生たちと彼らの考えていることをいろいろと聞いてみたい。
娘や息子の通っていたインターナショナルスクールでは数学の試験では電卓の使用が前提だった。要するに「計算」は機械にやらせなさいが世の中の合意事項として成立していたわけだ。 そうすると歴史なんてのも当然そうなるな。年号覚えなんてのは試験前のお馴染みのシーンだけど、いつ、どこで、何によって、何が起こったか、なんていう史実はもはや 4289X3094 のようにキーを押すだけで答えを導き出すことでいいじゃんという合意が早晩成立するはずだ。「計算」の次に「知識」も機械にやらせればいい、となる。 そして事実よりもその人物たちのインサイトに焦点を当てたり、諸説の謎解きをしたり、とより興味深いテーマに学生たちを導くことができるかも知れない。 オイラも日本史の授業がそうであったなら、秀吉の心の内を探る授業であったなら、今頃もっと歴史が身近なものであったかも知れない。 という、とても長い長い言い訳をさせていただきました。