久しぶりに明後日からKL行ってくる。10日間。 ちょうど日本から出張してくるノリさんと再会したり、家族でマレーシアで移住した武井さんと再会したり、駐在担当が交代したクライアントにご挨拶に行ったり、KLで独演会「三之助をみたかい?」を演る柳家三之助師匠の高座を拝聴したり、いくつかクライアント回りをしたり、JalanJalanソフトボールのWings戦に9番ファーストで出場したり、といろいろ。 NTTDATAマレーシア駐在員時代に一緒にクライアント回りをしていたノリさんは、日本帰任後、会社の「兼業制度」を利用してオイラの会社の営業スタッフとして一緒に仕事をしている。まだ半年経ってないが、すでに大きなクライアント(日本本社)を獲得してくれたからね。日本の企業ではこの「兼業制度」はどのくらいあって、どのくらい利用されているんだろう。とてもありがたい、もとい、とてもいい制度だ。ノリさんにとってもデジタルマーケティング領域へのノウハウ拡充は本業の役に立つし、収入も大きく増えるし、活用しない手はないと思う。 「兼業制度」を実施している会社の社員に「ウチの契約社員になりませんか?」という営業をやってみようか。
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ジャニーズ事務所の性加害問題って、まあ破格の悍ましさではあるけれど、芸能界では当たり前に行われてきたことで、 「だってそういうもんじゃん」 って空気が支配してるからBBCが報じなければ問題にもならなかったよね。 前にも書いたけど、オイラの幼馴染の女性が就活中に、映画会社のプロデューサーをやっていたオイラの叔父さんに就職相談に行った時、 「ヒロミちゃん(仮名)、プロデューサーと寝て仕事取ってく世界だけどやれる?」 って言われて 「はい、やれます!」 って震えながら答えたって聞いた。その後その叔父に紹介してもらったテレビ局のプロデューサーに面接に行く時オイラに 「やるとなったら、今日ってこともあるのかな?」 と心配そうに微笑んでいた顔を今でも覚えている。 キャスティングの権力を持っているプロデューサーはやり放題なんてのは 「だってそういうもんじゃん」 の世界だから、テレビ局なんて1ミリもジャニーズ事務所を糾弾する権利なんてないからね。 そんなことを百も承知の業界内にいる記者たちが声を荒げて問い詰める姿を見て、絶対変わらねーな、こりゃ、と思ったよ。
娘や孫たちが滞在している広島のお母さんが仲間内から 「あんた、なんか最近急に老けとりゃせんかい?」 と言われ、 「そうかね、孫たちが来てるからかね」 と答えた。 「孫たちはあんたんことを何と呼んどる?」 「ばあば、や」 「そらあかん、ばあばなぞと呼ばれたらそら老けるで」 と口々に言われ、帰宅してからハルとゲンに 「これからはマミーとお呼び」 と言ったらしい。 オイラも「じいじ」はあかん。何と呼ばそか。
週末に会ったある日本人が、 「製造業ではもう食っていけない。会社はB2Cの新規事業を模索していて、やっぱり飲食かなという話になっている」 と言っていた。で、今具体的に検討を始めているのが「焼肉屋」らしい。 製造業の業態転換としては今後こういうケースは増えていくんだろうと思うけれど、「会社を相手に売っていた商売を一般個人消費者相手に売る商売」だと考えているとなかなか上手くいかない。 オイラが考えるに、製造業をずっとやってきた人には、 「製造業脳」 というのがあって、「いいものをリーズナブルな価格で提供すれば売れる」と信じている。製造業時代に会社でこう叩き込まれて生きてきたからだ。 しかし、B2Cは「いいものをリーズナブルな価格で提供」しても売れるとは限らない世界なのだ。この上に 「マーケティング脳」 を鍛錬しないと生きて残っていけない。オイラが接点を持った製造業の方々でも、これを理解している人はとても少ない。
昨日、夕食後に風呂に入っていたら、大雨が降ってきた。風呂の中でTiktok動画などを観ながらリラックスしていたらカミさんがドタドタとやってきて 「大雨の動画撮ろう!」 と言う。 オイラがやっている「Bangkok Walk」というYoutubeチャンネルでも大雨の中を歩く動画は比較的人気があり、再生数が回りやすい。大雨が降ったら続編を撮ろうと狙っていたカミさんは嬉々として「早く!」と促す。 オイラは気持ちよくスーダラ状態だったのに、湿った体にボロボロのTシャツを着て、 「もう直穿きでいいよ!」 とカミさんから差し出されたトランクスをパンツも履かずに履かされ、カッパを着させられ、傘を持たされ、ビーサンでスコールの中に出された。 ひどい土砂降りだったので、すでに道路は冠水し始めていた。そんな中をナナ駅とアソーク駅の間をカメラを回しながら往復し、横殴りの雨にTシャツも直穿きトランクスもびしょびしょになりながら戻った。 途中、バス停で雨宿りしているお坊さんが立ったまま首を折り曲げて寝ている姿にドキドキした。 これも修行のなせる技か。
元会社(DIK)時代からお世話になっている先輩から大昔にオイラが社内報に寄稿した記事が送られてきた。昨日の「この先どうする?」の「ひと言」を読んだ後でこの社内報記事を見つけて、いいタイミングだとわざわざ送って下さったのだ。 その原稿はオイラが33歳、マレーシアのクアラルンプールで苦労して支社を立ち上げた時に書いたものだったが、こんな気持ちだったんだなぁ、と忘れていた記憶が蘇ってきた。こんな出だしだった。 ことし一月三十一日、本社より田中社長、矢部取締役、DIKタイより川村社長をお招きし、DIKマレーシアのオフィシャル・オープニングが挙行された。南国の青空にはためくDIKの社旗を仰ぎ見ながら、この日に至るまでのさまざまなことが思い起こされ、感きわまった。 三年半前の赴任当初、私は重度の下痢に悩まされ、通じない会話にいらだち、はかどらない仕事に焦り、体重が八キロ減った。ひとり寂しくホテルの部屋で、「これから俺はどうなるのだろう」と不安いっぱいだった私を元気づけてくれたのは、DIKの仲間から餞別にもらった「スーダラ伝説」と「ひばり大全集」(二枚組み)のCDだった。植木師匠は、「いろいろあるよいろいろね そんなこたどうでもいいじゃねえか」と笑いとばされ、ひばり先生は、「川の流れのように」とやさしく諭してくださった。 今の自分からすれば「おい、そんなのは苦労のうちに入らねーぞ。その後、とんでもねぇ、苦労人生が待ってるからな」 と無慈悲な声もかけてやりたくなるが(笑)、この時は、なんかこう、一つの山を乗り越えて、これから果てしない希望が満ちているという斜め上向きの眼差しが思い浮かぶ。 まだまだ初心を忘れずに、挑戦し続けていったろうやないかい、という気持ちになった。
無事にBKKー福岡ー博多ー広島の長旅をこなして彼氏の実家に到着した娘とハゲ。実家で過ごした後に大じいじ、大ばあばの家に親類も集まって賑やかに受け入れてもらった。オイラとカミさんもLINEビデオで繋いで皆さんとご挨拶。みんなが喋る千鳥のような広島弁がとても心地良い。 ゲラの娘がみんなの中で大笑いを連発していて、やたらに場が盛り上がっていたが、大じいじが彼氏に 「ほんと明るくてええ子やね、そういう子が絶対ええ。うちのばあちゃんも明るくてずっと笑ろてる、それがええんや。美人は3日で飽きるけど」 と、何度も繰り返し言ってると聞いてカミさんが 「これは、美人じゃないと言うことだね」 と笑っていた。